鴛鴦呼蝉庵日乗
  2002.10.02 自分の居場所
 今日は自分の居場所について考えてみました。体調が悪いときは、いやなことを考えますし、それで正しい判断はできません。でも、もしかしたら、悪いときは悪い時なりに、正しい判断をしているかもしれないのです。反発は自分自信の能力のなさですし、反感は自分への怒りです。だから、自分の居場所がないと思うこと自体、自分に対しての甘え、社会への甘えになるのですが、その甘えをどうにかして改善しようとしても、それは、自己満足の世界を越えられない、自己完結の世界となってしまいます。

 今日の夕暮れ時に、床屋に行きました。いつも行く床屋は、裏通りにあって、人目に付くことは全くないところにあります。いつも空いているからでしょう。その主人とは数年しか年が離れていないのですが、なぜか信用できる人です。先代が存命の時に通って、今はその主人と話しをしています。お互いに名前も知りません。でも、その主人は私を迎え、何も尋ねません。さすがです。プロの職人とはお客の心の中には入らないで、話が出来るのです。こういう人は大人です。自分の世界に入る人を上手く誘導して、人の世界に入ることなく、社会的なつき合いが出来るか、それは、自分自信の能力をわきまえているからです。

 自分能力の限界を知ったとき、自分の今でしたことは、趣味になります。生き様でなく、趣味に。生業としての生き方、趣味としての生き方。どのように生き方があるのでしょうか。人生の岐路は沢山あっても、その岐路で迷うのは、年齢にかかわらずあるものです。それを一人で抱えることがあります。だから、苦悩するのです。だから、楽しいことを求めます。でも、自分を理解し得ない、それは、自分もわからないですし、他人はもっともわからない。

 無力なのは承知です。何に怒っているのかわからない状態なのもあります。でも、そうわかっていても、自分は無力です。何も出来ない意識はつきまとう。自分の居場所がわからないのです。

 言葉が言葉として伝わるとき、それは、言葉の内容でなく、相手との距離、つまり信頼関係だと思っています。それが私のコミュニケーションの基本です。最初に疑いがあって、しばらくして信頼ができると、長続きします。最初に信頼があって、それが一度崩れると、ほとんど復旧不可能になります。復旧するには時間が掛かります。信頼すること、コミュニケーションには、言葉の伝達のみならず、相手意識、ことばの重さがここにあると思います。言葉が通じると自分の存在価値があると思います。伝わるかどうかは、すぐにはわかりません。ただ、その伝えたという満足はあります。それでいいのかは、また疑問です。

 私宛の絵はがきが届きました。文章はありません。ただ、猫の写真の絵はがきです。だれかわかりません。その手紙。だれか。でも、それがだかれかわかりません。でも、わからなくても、いいと思います。そんな流れがあると思うから。

 自分の存在位置は幸せであるとは、知っています。どんな不幸な人間よりも幸せ過ぎます。けど、幸せということと、自分の悩みとは相対的であって、それを絶対的に比較することはできません。だから、辛いのです。幸せに見えて辛いというのは、相対的だからです。金銭の問題ではないのです。

 力を込めて、挑戦することに意味があります。完成することの喜びを得たいのです。どうするか、どうやっていくか、生きていくか。それを得ないことには達成感はありません。努力しかないのと、自分の意識を変えること、それはかわっていても、なかなかできません。できるのは期待と自分の喜び。達成感。それだと思います。楽しさって自分の力があることを知ること、そこにあります。

 「真夜中の嵐」という番組の苦情処理はなかなか勉強になります。真意と誠実がないと伝わりませんから。それは、信頼ではないでしょうか。世間的にはサービスですが、必要なのは、信頼、つまり誠意なのでしょう。でも、その誠意が伝わらない場合は。それは時間をかけて行動を示すしかありません。時間です。何もしないのではなく、無力であっても、時間をかけて行動することでしょう。

 金木犀の香りももうすぐ終わりです。この日乗も意外に読まれているらしいので、軽いことは言えませんが、でも、それも自己表現の一部ではないかと思います。表現の可能性は無限ですが、表現するということは、限りなくマクロです。伝えたいことがある。それが表現の第一義です。

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