2003.01.20 回避
 夕方、あまりにも眠いので仕事になりませんでした。そこで、カップスープを飲むことに。飲食は眠気を覚ますので。市販のは塩味が強いので好きではないのですが、それでも我慢して飲みました。その後、そのマグカップを洗ったら、カップスープがこびりついてなかなか落ちないのです。お湯だとすぐ落ちるのですが、水ではだめでした。体内はある程度の温度があるからいいかもしれませが、しらないうちに、油などが体内で蓄積していることもあるかもしれないと、考えると少し怖くなります。ペットボトルを温めると、何か物質が溶け出すのではないかという疑心暗鬼。そういうものかもしれません。安全とは難しい概念で、信用に近い。

 少し前に、ある人から「記憶に残っている写真ついてのべよ」という題の小論文について相談がありました。その人は写真に写っている素材について書いていたのです。写真は素材を伝える道具として情報を読みとったのです。それについては善悪はありません。ただ、写真とはそのように素材を示すだけなのでしょうか。新聞が会社ごとに記事内容が異なるように、写真も撮影する人の視点によって受ける印象が異なります。情報を操作できる道具なのです。だからこそ、撮影している人の視点を意識して鑑賞しないと、写真という表現ではなくて、素材について語ってしまう。それなら、テレビでも絵でも媒体は何でもいいということになります。写真であるがゆえの表現は何か。それが写真を鑑賞することの第一歩だと思います。写真という装置を超えて、写真という媒体を用いた作者の意識、視点を読みとること、それが写真を「読む」という行為ではないでしょうか。
 いや、久しぶりに写真について語ってしまいました。本当は「ゾーンシステム」についてから話さないと私の考えている写真について説明できないのですが、それはまたいずれのことにいたしましょう。

 ポストモダンは本当にポストモダンになっているのか。ポストモダンが今になると、ポストモダンとしての対象になってしまう、いわばポストモダンがすでにポストでなくなっていることはないか、その検証方法について誰か教えて欲しいと思いました。

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