ローマ字表記の読みというは、実は難解であったりします。普通に読めると思いつつも実は、違う読みかもしれません。
田近洵一先生の場合もそうでした。名前の「じゅんいち」を表記すると、「junichi」なのですが、でも、これを読むと「じゅにち」とも読めてしまいます。それで「jun'ichi」と表記させて読ませる場合もあります。区切りですね。
区切りという点では、こういう例もあります。トイレ製品で有名な東洋陶器ですが、製品に「toyotoki」 と書いてある場合がありました。これだと、「とーよーとーき」なのか「とよとき」なのかわかりません。すでに漢字を知っている人は、「とーよーとーき」と読むでしょうが、初めてこの名前を知る人は「とよとき」と読む可能性もあります。もしかしたら「とよとかい」と読む場合のもありますね。
区切りという点では、古文の区切りがかわりにくいですね。中学の頃は、古文の区切りはどこかかわりませんでした。で、それは、古文単語を知らないからだとばかり、つまり自分の頭が悪い、いや、知識がないと思っていました。ところが、あるとき、古文をすらすら読めるようになりました。古文単語の量は増えていません。でも、読めるようになったのは、朗読を聞いてからですね。テレビで放送していた、近代文学の朗読を聞いて、ふと、何かリズムを感じました。それから、テレビでの古典の朗読を聞くと、流れがなんとなく見えてきたのです。すると、古文でも、音律ではないですが、流れがあることに気づきました。結果からすれば、文法的な区切りをしていたのですが、その時は、そんなこととは知らず、ただ音律が不思議に自分の中にあるような気がしたのです。
ことばには、リズムがあると思っています。そのリズムが、どこで区切るからの認識を生むというのが私の仮説です。現在はやりの音読とは違います。リズムというのは声のリズムではないのです。ことばのりずむなのです。
例えば、田近先生は、「子供」という表現を使うとき「子ども」と表記すると言ってました。そのとき、何かの意義があるということよりも、手が自然に「供」と書くことを拒むというのです。あとから考えれば、理由はいくらでもつけられますが、その人固有の表記や書き方、そして、言葉の使い方があります。物まねがそうですね。その人固有の言い方やニュアンス、音律があるから、物まねが物まねとして成立します。
つまり、そこには個性があるのです。ことばのリズムとは、その人固有の性質であつて、その人の本質を典型しないとリズムとはいえませんし、個性ともいえないでしょう。
その人固有の表現、いいまわし、言葉の使い方、それらを「ことばのリズム」として音とは別の広い意味でとらえてみたいと思います。
最近、ウィルスが多いのですが、送りもとを調べると、以下のプロバイダですね。メールアドレスは偽装されていますから、経由地をみとる、以下のプロバイダのメールを使っているようです。正しく言えば、stmpを使っているようです。IPは出しませんですが、わかる範囲の所から載せてます。
ip01okayamaima.okayama.ocn.ne.jp
nas941.k-tokyo.nttpc.ne.jp
adsau15hon-acca.tokyo.ocn.ne.j
ppp.wakwak.ne.jp
osakac00.ap.so-net.ne.jp
ap.plala.or.jp
catv01.itscom.jp
ご確認をお願いします。これ以外のプロバイダかも来ていますが、このプロバイダからのが、頻繁で、毎日ここからウィルスが届きます。多分、常時接続なのでしょうね。
5:00就寝、7:20起床、2:20睡眠。
朝食、ごはん、納豆、みそ汁。昼食、そば、八朔、あんぱん3個。夕食、ごはん、みそ汁、冷や奴、サラダ、ぶりの煮付け。夜食、なし。 |