図書館から借りてきた明治期の教科書、明治30年代のものなので、特別に珍しいものではありません。それを見ていると、めくる手にざらという感触が残りました。白い紙を用意して振ってみると、少し大きめの砂粒がぱらぱらと落ちてきました。どこで混入したか分かりませんが、もしこれが元の持ち主の手から図書館にすぐに入ったとすると、その持ち主が遊んでいた場所の砂が混入したのかもしれません。
別の教科書には藁のようなものが入っていました。もしそれが明治の読者の形跡だとすると、どんな人生を送ったのか、気になります。本を借りるということは、本の内容を文字情報や図形情報として読み取るのではなく、読んだ人が残していった跡を読み取ることになります。和田敦彦先生は、そのことを以前触れていたように記憶しています。リテラシー研究会にはまだ参加してませんが、年内に一度は参加したいと思います。
きっとそれは、教科書というモノに、ある人が使用したという、固有のモノであるという認識になったからなのでしょう。どこにである教科書ではなく、その人が使った唯一の教科書という概念です。教科書研究にはそのような、固有な教科書としての調査もふくまれると思います。つまり、教科書使用の個体史としての方向性です。それは人類学的にも人間科学的にも書誌学的にも心理学的にもなるので国語教育学としては周辺研究に属するかもしれませんが、その周辺を細密に調査することで、中心の存在が違った方向から検討できると思います。
愛媛には仕事の都合で伺えませんが、吉田先生、府川先生、牛山先生、甲斐先生のお話を伺えないのが、残念でなりません。
もう少し、教科書の在り方については、多角的な学の体系についていずれ考えたいと思います。
それと、ここの更新は不定期です。中止も再開もありません。思うときだけ、つらつらと。
[今日の記録]
4:30就寝、6:50起床。
天気:晴
最高気温:30度
最低気温:20度
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