鴛鴦呼蝉庵日乗

2011.06.26  再開という区切り

 東日本大震災により被害に遭われました皆さまには心よりお見舞い申し上げ、一日も早い復旧復興をお祈り申し上げます。

 阪神淡路の時は、朝のテレビで見て、何か大きな胸騒ぎがしたのを覚えています。中越の時は、仕事中で大きな揺れでこれも大事が起きたと実感しました。そして、今回の東日本では、震度5を体験し、すぐに遠くで甚大なことが起きているとわかりました。
  多くの人が、今自分には何が出来るのかを考えて悩んでいたのを、新聞やラジオ、テレビなどから感じ取りました。そして、今すべきこと、それは将来へ向けて進むことであること。それが教育であれば将来を生きる世代に、考えるきっかけを作ることが第一であるように思えました。
  テレビで、サンドイッチマンが語っていた、被災地の盗難も、「同じ被災者だから気持ちはわかる」と言った被災地のお店の人の言葉、夏木マリが震災がきっかけではないけど、入籍したという気持ち、その他数えきれいないほどのさまざまな気持ちが、溢れていました。
  震災の時の状況を語れば、さまざまな出来事、さまざまな思いが振り返ってきます。いずれ少しずつ整理しなければ鳴りませんが、その中でも、大島弓子の「グーグーだって猫である」で地震におびえる猫の様子を見て、やはり尋常ではない様子が再びよみがえりました。
  その大島弓子の「グーグーだって猫である」、阪神淡路の翌年の1996年に連載が開始され、東日本の2011年、ついに最終回となってしまいました。すべてを読んだのではないのですが、突然の最終回ということで、作者の憔悴も推察され、そして、多くの読書も何かしら心に残ったことだと思います。作者はもちろんその日が来ることは予想できていたにしろ、やはり突然の感はいなめないのでしょう。その突然の消失感というもの、震災の時に多くの人が受けた感じも、消失感という言葉で括ってしまえば単純ですが、多分、何かしら多くの細かな感情が入り交じっていて、それを表す言葉はなく、ただ、消失感、喪失感というものでしか一時的に置き換えられないことが、むしろもどかしく感じるのだと思います。
  その消失感、喪失感というものを振り返って明日への力にするには、一年後にしっかり振り返ることだと思います。遠藤先生の実践を読んで、さらに思いを強くしました。

 2010年の更新がほとんどなく、2011年もいままで更新しなかったのは、別段意味があったわけでもありません。このような形式の記録に対して、多くネットで個人の情報の問題と、情報と個人の対応と、個人と社会の関係が崩れ始めて、そこでもう少し観察が必要かとおもったからです。別段、ここでの情報が社会的な制約や監視下に置かれているということではありません。言論統制的な威圧行為はなかったにしろ、言論ということと、表出ということが違ったカテゴリーになっているこの社会では、情報という括り方をもう一度検討する余地がありそうです。それは、メディアという語もそうですし、メデイアリテラシーという語もそうです。

 ここに記すことも5月より再開を考えていましたが、少しその準備に時間がかかりました。まだ、準備は終わっていないのですが、この一ヶ月で少し方向性が定まってきたので、今まで通りとはいきませんが、再開となります。もちろん、いつ終わるか分かりませんし、また、これで今年の更新が終わるかもしれません。

[今日の記録]
天気:曇
最高気温:23度
最低気温:20度

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