鴛鴦呼蝉庵日乗
2001.9.10 相対性
   小説などで、一人称、つまり地の文が「私」の文章は、その「私」が視点から描かれています。実際の人物は違うかもしれないのに、その「私」の考えが書かれていくことになります。本当の人物と書かれた人物、これは違います。私たちは小説を読むとき、それはすでに暗黙の了解事項として虚構を受けて入れているので、その「私」の視点を理解しているつもりで、つまり、「私」の見方で見ているのです。
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 雨が降るとします。植木のことが気になる人は、雨が降ってうれしく思います。しかし、傘を持っていない人は悲しみます。雨が降るという現象でも、その時の状況でうれしくも悲しくもなります。つまり、雨が降るという現象はその現象のままであって、その現象をどのように受け取るかはその人の状況によって変わるのです。
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 電車の中で、かっこういい異性がすぐそばにいると、電車に乗っている30分間は、あっという間に過ぎていきます。ところが、嫌いな異性、脂性とか、異臭とかする人がいると、電車に乗っている30分間は、とても長く感じます。つまり、時間というものは、30分という時間でありながら、感じる時間はその時の状況によって異なるのです。授業も同じです。楽しい授業はあっと言う間に過ぎていきます。つまらない授業は怠惰な時間としてか感じられません。試験もそうです。試験を三科目受けている3時間弱の時間と、映画を見ている時間とでは、かなり充実感が違います。つまり、時間を感じるということは、相対的であり、それゆえに、時間とは相対的な存在なのです。
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 ある友人が、世間では悪い評判が立っているとします。自分にとってはかけがえのない友人であっても、親からはいやな友人かもしれません。それは相対的だからです。犯罪を犯した人が恋愛し、結婚したとします。犯罪者という視点で周りは見ます。しかし、結婚相手からはかけがえのない相手です。犯罪者ということに間違いはありません。しかし、結婚相手からはかけがえのない相手であることには間違いはありません。それゆえ、相手の考えとは相対的なものです。
 あるバンドや歌手について、ファンがいて、それに対して嫌う人もいます。それは、価値が一定していないからです。
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 「客観」ということばもそうです。「客観」といいつつも、その観点は個人の見方です。つまり、その個人の主観という形に乗った「客観」であり、あくまでも客観的という主観の表現なのです。それゆえ、その「客観」を使うことばの内容と自分の内容とを理解していくことが必要となります。
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 相対性である限り、自分自身も相対的な存在です。というのも、昨日考えたことと、今日考えたことが違うことがあります。それは成長です。状況の変化が人を成長させます。それゆえ、人は変わるのです。夏目漱石の「坊つちゃん」を読んでおもしろいと思った子どもの頃、大人になって読むと、違った考えになることがあります。これは、読む自分が成長したからです。相対的とは、自分との比較検討から始まります。
 それゆえ、今の自分は今の自分であり、昨日の自分は昨日の自分となります。今の自分の考えは今でしか表現できません。だからこそ、表現する行為が必要です。「かけがえのない今の自分を、今の自分のことばで表現する。」、これはかくかいの活動の指針です。その考えは今から20年ほど前に考えたものです。今でもこの考えは変わりません。私の考えはこの一点にあります。相対性であれば、あるほど、今の自分はすぐに過去になってしまいますから、今の自分で表現することが必要です。表現することは、自分を相対化する作業です。それは、明日の自分を形成する行為です。人間関係形成行為としてのコミュニケーションでは、自分との対話としてコミュニケーションが必要です。それは、自分という相手との人間関係形成行為だからです。
 雨の日に小学生の群れを見ていました。私が子どもの頃は傘は黄色と決まっていました。しかし、今は色とりどりの傘をさしています。もう、危険回避としての傘ではなく、自分の個性を表現するという傘となっているのかもしれません。そんなことを考えていたら、相対性ということについて以前考えたことを思い出しました。それで、その後にある所でこのような話をしたら、物理で習った相対性理論につながるのですかと質問を受けました。中身は違いますが、相対化というものの考え方については、このような理解から始まることもありましょう。
 台風の影響で、今年買った鉢植えの朝顔の花も咲いていません。花芽があるので、これからが楽しみです。

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