鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.03.13 手術予定

 今日は初めて大学病院で診察を受けました。口腔外科で、歯の根もとの骨が溶けて、膿が溜まったものでした。まずレントゲンを3枚撮って、中を確認しました。そうしたら、以前よりは少し小さくなっていましたが、3本の歯の根本にかかっています。お医者さんの話では、一本の神経が死んで、そこに雑菌が入って化膿し、広がったものだと言います。それも、一年ではなく、数年かかって広がったというのです。現在は葡萄の房ぐらいの大きさです。それを掻き出して、問題の歯の根本を削ります。もしかしたら、横の歯も神経を抜くことになります。手術は通いでできますし、食事もその日からできるそうです。今月末に手術、来月初めに抜糸です。うまくいったらの話で、もしかしたら、長引くかもしれません。手術後は話はできても、事務仕事のみならいいとのことでしたから、安静にしたいと思います。ちょうど鼻孔の下ですから、手術としては面倒らしいです。術後の前歯は不安定になりますし、歯の寿命も短くなります。いずれ入れ歯になるでしょう。思えば三叉神経痛に似た症状が出た時にはすでに神経が死んだのでしょう。昨年に歯茎から膿がでましたが、それはバイパスができてしまったので、いずれレーザーで出口を焼くことになります。こんなことの説明を受けると、かなり深刻な手術に思えますが、先生方はとてもテキパキとした対応で、手術方法な現在の状況もよくわかりました。これでいろいろな悪いところか治ればいいと思いますが、手術後にうまく話ができるか、発声はどうなるか、心配ではあります。歯を治すと滑舌や発音が変わってしまいます。特に、口から息が漏れると、母音が響かなくなります。まあ、心配してもしかたないので、その日までに仕事を終わらしておくことにします。

 「辛いことなど話す相手はいますか」という質問がありました。その人は善意で質問したのでしょうけど、大人になると、全てを話すわけではなくなります。立場が話を決めてしまうこともあります。職業上の話は、あくまでも職業上であり、その役を演じているのですから、個人的な話でも、それは効果や目的をもっていることになります。それと、子どもの時は全てを話すことはできましたが、大人になると、話さなくなります。それは、周りとの関係を意識するからです。子どもと大人と区別することは間違いかもしれません。それを話すことで、周りの人がどのように気にするか、あるいは違う解釈されてしまい、誤解を生じてしまうか、いっていいものか、そんな意識があって、話すことをためらいます。つまり相手との関係性において話すことを規定してしまいます。お互いが辛いことを持っているから、辛いときには話さず、時間を経て、笑い話になった時に話すこともあるでしょう。だから、「なんでも話すことができる」関係というのは幻想ではないかと思います。相手への配慮、いや、自分への配慮から話すことを束縛してしまうのではないでしょうか。
 その質問をした人は、内容をそのまま質問したのですが、答える立場になっては、この経緯を話すことで、むしろ、今話していることが演技になってしまっていること、拒絶に取られることがありますから、そのことは話せませんでした。なかなか難しいことです。

 話すことが自分に対しての表現であることは間違い有りません。ただ、根拠や背景を分析されても、その分析まで意識して演技していることなので、分析はあたらないことになります。むしろ、それだと理解されることはなくなってしまいます。コミュニケーションが相互理解であるとするならば、相互理解はお互いをしっかり理解するというよりも、相手はきっとこう考えているという信念を持つことがお互いを理解する構造になるのではないでしょうか。

 表現することは、苦しみことではなくて、楽になるためです。表現が好きな人は自分が好きです。だからこそ、表現することを楽しむのです。表現とは自分であり、だからこそ、苦しむよりも、楽しむこと、自己を肯定的に捉えることから、技術に対する向上心、感性への意欲を湧かせるのではないでしょうか。


Copyright 黒川孝広 © 2003,Kurokawa Takahiro All rights reserved.